千巻舎 碑の詞
 題額 蓬廼廬
     熾仁

千巻舎(ちまきのや) 
碑の詞(いしぶみことば)
題額 蓬廼廬(よもぎのいおり)
有栖川宮熾仁親王

天の下に百八十種とさはなる寶の中に勝りてめでたき御(たから)主は、書になむありける。又八百萬千萬とおほかる人の中にぬけいでて尊きは書好みてよく讀む人にざりける。去る人はいといと稀らなるを参河國碧海郡堤の里に其人ありけり。村上忠順翁姓は源、字を承卿といふ。

村上天皇皇子中務卿具平親王より十五世の孫伯耆守村上長年朝臣の裔にて、父は忠幹、母は美志子、深見氏なり。文化九年四月朔日に生まれて人となり、君に仕る道、親を思の心深しはいふも更なり。妻子をいつくしみはらからをむつび友がきを親しみ、己を正しくし人の善きをめでしはいよよすすめ、悪をみては戒めきため仏道漢學の害有るを悟り神道の上も無く尊き事を明らめて世のため國のために思いを深め身を脩め家を(ととの)(おご)らず(やぶさか)ならず萬のおこなひ備りたるもいとおさなくして手書き書よみ歌よめ、詩つくりなどし揚巻の頃より晝はもの食ふほどもかたへにひろげおき夜は机によりながら露ばかりまどろむほかは書みぬまはなくつとめたればなりけり。側謡や書や俳諧歌やといと若き時の心慰みにすさびしも、いたり深きが故なるべし。然れど詩は舌だみたる夷詞なりとて後には作らず。歌をのみ常によむにも、はなやかになまめきたる。又巧みなるにはあらで上つ代の直く正しく武く雄々しく實あるをむねとつとめられ家業とある醫師の道は本よりにて、大和も漢も名ある師につきて廣く學びいそしみて其のおくがを極め父の職を繼て刈谷の里しらしし殿に任へその君のこはしのまにまに論語・孝經・老荘・孫子・源氏物語などを(とき)(おし)へ奉り、又年年に古事記・祝詞・古語・拾遺・萬葉集・金玉集・散木棄歌集・和名類聚抄を標註し名所栞・神號略記・玉櫛・詞の玉鬘・雅語譯解・拾遺諭草といふ書どもを集め著述し玉藻・菅藻・文史・差峩野・千代の古道・元治千首などの歌集を集め、随筆は蓬の杣・蓬蘆歌談などあり。かくつとめいたつきし學の力を慕ひきて、物習ふ教へ子など家の名につける蓬の杣なして門も狭に集うまにまに其名雲井に聞こえあげて、明治元年三月大總督有栖川宮の召に從ひて朝廷に忠心を盡し、同二年其国府なる修道館の助教となり、同三年宣教師の命を蒙る。今年その遠つ(おや)(いつ)く祭り、又葬の事など総て神代の法にかへしぬ。三河國にて神司の外には此の家ぞ初めなりける。同五年祠官、同六年少講義を次々に補任せられて仕へ奉るもかしこき神の道をひたぶるに、尊む心の厚きによりてなるべし。翁甚弱き頃よりあらゆる書を視聴にしたがいてもとめしも寫しとりもして、いにし年既に四萬巻にも餘れるをあるがうえにもいやさわにあらまほしきは書なりとて、なほ月に日に珍しきを購ひそへつつ文庫つくりて棚板もたわわたわわに横山なすつみなべて千巻舎と名附て遠長く後世に傳ふべくもの、せられしは、かのあめなる御倉棚の神も(かま)け給らむかし。あなたぐひなのおもひはかりや、かかる功績の高きにくらべては此倉の北窓より美空遥に仰ぎみる越の白山も低かりなむ。あなめでた。

天地のむたに久しくつたへんと、たてしふみくら、みればたふとし。

明治七年五月十三日 紀伊国熊野坐神社 権宮司十等兼中講義 熊代繁里

三河國額田郡岡崎隠士 三宅道煕書
同國新堀村 深見篤慶建
嶺田寅吉作

  この碑は、村上忠順翁の業績について書かれており、題額は有栖川宮熾仁親王、文言は忠順翁の国学の師、熊代繁里が。そして碑を建立したのは忠順翁の娘婿、和歌の弟子でもある深見篤慶です。